廃寺寸前に・・・
鷲林寺は今を去る約1200年前、淳和天皇の勅願を受け、弘法大師によって開創された由緒正しいお寺です。盛時は寺領70町歩、塔頭寺院は76坊を有する大寺院でした。西宮市に保管されている資料によりますと、その寺領の範囲は鳴尾の浜まで広がっていた時代があったと書かれています。
しかし、戦国時代に入り織田信長の兵火の巻き沿いにあったり、数度の落雷や山津波などによって大きな被害を被り、衰退していく歴史をたどることになります。一時は廃寺にする案まで飛び出したこともあったそうです。由緒正しき鷲林寺を残すために、その当時の結衆寺院 法類寺院のご住職、檀信徒の皆さんの永い間のご苦労によって何とか廃寺になることだけは免れました。
50歳で入山
そんな中で昭和28年、先代住職老夫婦が住職として迎えられました。迎えられたといいましても、そんなに仰々しいものではなかったということです。由緒正しき鷲林寺ではありますが、その実情は悲惨なものでありました。戦国時代の焼き討ちのあと、数人の住職が入られた時代もあったそうですが、何せ山の中です。食料をお寺まで上げるのが一苦労です。また、その当時のことですから、地元の村の人々も自分達の生活を守るのが精一杯で、とてもお寺のお守ができなかったのです。住職とて仙人ではありません。食べていくことができないのですから次々お寺から下っていかれました。
無住の時代が長く続き、その間に泥棒が入って仏具類を盗んでしまいました。そんなあとに先代老夫婦が入ったのですから、大変なご苦労であったと思います。先代が50歳の時のおはなしです。
鷲林寺村の人々の協力
先代老夫婦がお寺に入られるまで、数人のお坊さんが住職として入っておられます。しかし、すぐにお寺から下ってしまわれます。そんなことで、先代老夫婦が入られた後も
「どうせ永くはもつまい。じきに出て行きよるわ」
と思われていたそうです。
しかし、先代老夫婦はお大師さまへの信仰があつく、絶対にこの寺を復興するというあつい信念を持っておられました。また実家が農家ということが幸いしました。自分達の食べる米や野菜を実家から運べるという大きな利点があったのです。食料がなくなれば実家まで取りに行き、お寺まで徒歩で運ぶ。そういう作業が永い間続きました。
そんな様子を見ていた村の人たちは
「今度のお坊さんはちょっと違うぞ。頑張って我々の寺のお守をしてくれている。せめて、わしらがお坊さんの食料だけでも世話してあげなあかんのと違うか!?」
そんな声があがってきました。
「おーっさん・・・(このあたりでは住職のことをこう呼びます) うちで採れた野菜です。食べてみてください」
「米が収穫できましたから、食べてみてください」
先代老夫婦はもともと農家でありましたから、村の人たちとのコミュニケーションもうまくとれたのでしょう。色々なことが幸いして、村と寺が一丸となって『鷲林寺を復興していこう』という兆しが見えてきたのです。
復興の第一歩 竹で仏具をつくる
永い無住の時代、お寺泥棒が入って仏具を盗んでいきました。先代が本堂に入ると中はもぬけのから・・・本尊さんがポツンと立っておられるだけでした。ロウソク立てもなければ線香立てもない。仕方なく薮に入り、竹を切り釘をさしロウソク立てにし、少し大きめの竹を裏返し、その中に砂を入れて線香立てにしたそうです。また簡易の机をこしらえて、それを壇にして、その上におまつりする六器なども竹でつくったそうです。鷲林寺復興への道の第一歩は竹製の仏具からはじまりました。少しのお金をたくわえて、ひとつひとつ仏具を揃えていかれました。
じゃこを売って・・・
盛時は76坊の塔頭寺院を有していた鷲林寺ではありますが、先代が入山されたときは檀家さんは鷲林寺村16件のみ。信者さんもゼロ。おまいりに来られる人もまったくなしの状態でした。村の人たちも自分達の生活を守るのに精一杯。しかし、雲を食べて生きるわけにはいきません。
先代老夫婦は、西宮浜まで行き、じゃこを買い、それを西宮の町まで運んで売って、それを生計のたしにしていたという話を聞きました。
実家にいれば、大百姓の主人として暮らしていけるのに、あえてこのような苦労をしてまでも鷲林寺の復興に情熱を燃やされた先代老夫婦・・・頭が下がる思いでいっぱいです。
参道整備
当時のお寺への参道は、雨が降れば川となるような細い細い山道が、ふもとの鷲林寺村から続いていました。もちろん交通手段は徒歩です。街燈もなく、夜になれば月明かりだけを便りに歩かなければならない。ともすれば、狐や狸がでてきて遭遇する。そんなところでした。
お寺に人をよせるには、お寺に上がってくる道を造らなくてはならない。西宮市 村の人々の協力のもと、ブルト―ザーで山を開いて参道を造成されました。昭和30年代前半のおはなしです。参道が完成して、お寺まで車が乗り入れできるようになりました。
護摩堂建立
先代は護摩を焚くことが好きでした。護摩堂がないときは本堂で焚いておられた形跡が今でも残っております。
“護摩堂を建立したい”
ずっとそう念じでおられました。そんな時、信者であった西宮市在住の黒崎さんという方が協力していただけることになりました。先代も護摩堂完成にむけてご本尊に祈り、黒崎さんも100日間日参されて願をかけられました。そんな願いが仏さまに通じたのでしょう。昭和32年に護摩堂が完成しました。
柴燈大護摩の実施
先代老夫婦が入山された頃はお寺には誰も上がって来られませんでした。たまに、ボーイスカウトの少年達がハイキングで通るくらいです。ボーイスカウトの少年達とて人間です。何せ人間を見ることがめずらしいのですから、その少年達を庫裏の中まで案内しお茶を接待した話をよく聞きました。
護摩堂建立以降、そんな状態であった鷲林寺に、少しずつではありますが参拝者が来られるようになりました。先代老夫婦の努力の結晶でありましょう。
その頃から、先代は村の男の人たちを集めて大峰山参拝を実施しました。大峰山に連れて行き、行者さんとしての修行をすすめます。そして、ある程度の人数の行者さんをつくり、鷲林寺境内で柴燈大護摩を修法するようになりました。それを1月・4月・8月の年3回実施し、鷲林寺の大祭と位置付けられたのです。このようにして、徐々にお参りの数も増えてきて、信者さんとなられていきました。
庫裏新築
私は幼少のころから“おじいちゃん子”で、よくお寺に遊びに来ていました。その頃は、交通の便が悪かったので、お寺に来れば必ず泊まっていました。先代老夫婦の住まいする庫裏は古い建物で、今にも崩れそうな箇所がありました。泊まるとき、先代夫婦の真中にはさまれて休むのですが、天井の隙間から月や星が良く見えました。また、寒い冬にはよく雪が降りましたが、雪が天井の隙間から舞い降りてきて、ホッペタについて目が覚めたことを覚えています。
そんな状態でしたから、村の人たちも心配され、庫裏新築工事の計画がたてられました。境内の一部をお墓にして、その資金で庫裏を建築することになりました。昭和47年のことです。その頃の建物としては立派なもので、新築なつた庫裏を見上げて
「すごいな〜」
と感心したものです。特に広々とした玄関が印象的で、旅館にきたような気になったことを覚えています。
境内整備
その他、先代老夫婦は地味ながらも教化活動を続け、着実に信者さんが増えていきました。ボーイスカウトしか足を踏み入れなかった鷲林寺に、大勢の方が来てくださるようになったのです。
庫裏を新築した後も、修行大師・水子地蔵などを建立し、境内の整備をしていかれました。
多宝塔建立を夢みて・・・
先代住職の夢のひとつに鷲林寺に多宝塔を建立することがありました。この鷲林寺に入山された時から思っておられたことのひとつでありました。
「鷲林寺には多宝塔があったはず。何とか自分の代に建立したい」
そういった発願のもと、多宝塔建立を目指して多くの信者さんにご協力を得て、「心経会」という組織をつくられました。心経会とは、毎月第二日曜日にお寺に来ていただき、ご本尊さまご宝前にて、多宝塔の建立を願い、一人100巻ずつ般若心経を読誦するのです。一人100巻だから、10人で1000巻、20人で2000巻読誦したことになるのです。多宝塔を建立するには莫大な資金が必要です。しかし、想像を絶する金額で、到底人間の力だけではどうすることもできません。ご本尊さまにおすがりするしか方法がないということから、はじめられた行事でした。
昭和52年、多宝塔の基壇として納骨堂が建設されました。
しかし、昭和58年10月28日、多宝塔の建立を見ずに先代は遷化されてしまいました。先代亡きあとも心経会は現住職が引き継ぎ、多宝塔が建立されるまで続けられました。
平成3年に多宝塔工事に着工しましたが、完成を見ることなく平成3年4月11日、先代の奥さん(現住職の祖母)も亡くなられました。
50歳の年令で荒れ果ててしまった鷲林寺に入山され、村の人々とのあつい信頼を築きながら、村の人々と共に鷲林寺の復興に命をかけられた先代老夫婦。廃寺寸前になっていたお寺を守っていただいた結衆 法類寺院の御尽力に感謝しながら、ひたすら お大師さま ご本尊さまを拝みぬかれた先代老夫婦。この二人を中心として大きな大きな基礎を築いていただいたからこそ現在があるものと感謝しております。
1200有余年の歴史を持つ鷲林寺ではありますが、何代目住職なのか定かではありません。よって、わたしたちは先代住職を中興第一世住職として尊敬しております。
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